聞き耳好きすぎる。
聞き耳×カシウス Tender Christmas Night 「今、着いたよ。どこ? ――あぁ、そっち? ん、わかんない。道で会う? ――了解。あとでね」 混み合う駅の改札を窮屈そうに抜けて、カシウスはジャケットのポケットに携帯を突っ込んだ。 道行く人はカップルが大半。改札付近でたむろしているのは待ち合わせらしき人。柱に寄りかかって携帯をチェックしているサラリーマン風の中年男がいる。時刻はまだ7時だから、仕事を早めに切り上げてきたのだろう。 付け睫毛をした派手な化粧の女の子と、いかにもセンター街にいそうな、金髪を空に向って立てた男の子が腕を組んで階段を上がっていく。出口に向かうカシウスも自然とその二人の後を追う形となった。溌剌とした笑顔が幸せを物語っていた。自分とは明らかに違う人種だし、普段なら好ましいタイプではないけれど、今日はなんだか微笑ましい。 階段を上がりきった先にも、人、人、人。共通の意思を持つかのように誰もが同じように笑い、同じ速度で歩いていた。 その人の流れの両側に植えられた背の高い木々は、時期特有の電飾をその枝に巻き付け、明るく輝いている。白くなったり、青くなったり、チカチカと光るイルミネーションがあまりに明るいせいか、空を見上げても星は見えない。だが、誰も星を見に来ているわけではない。12月半ばのこの時期、ここいらはクリスマスイルミネーションで人気のスポットなのだ。 (寒……) カシウスは両手をポケットに突っ込み、顎を引いてマフラーに顔を埋めるようにした。 (見つかるかな……) 改札で待ち合わせる予定が、お互い反対の出口から出てしまい、この通りで出会うことになった。混んでいるし、暗いしで、カシウスは互いを見つけることができるか不安だった。もとよりあまり目が良くないし。でもきっと向こうが見つけてくれるだろう。いつも動体視力を自慢していた。 (なんか動物みたいなんだよな、あいつ。サルっぽいって言うか) 昔の面影を思い出してカシウスの瞳が柔らかく笑みの形になったとき、後ろから肩を叩かれた。 「お疲れッスー」 振り向いた先には馴染みの旧友の姿。いたずらっぽく歯を見せて笑う姿に、カシウスも親しげな微笑を浮かべた。 「……聞き耳。お疲れ」 「今めっちゃ目の前通ったのに、ガンシカトすんだからな〜」 「え、気付かなかった」 「ボーっとし過ぎなんスよ」 聞き耳と会うのは3ヶ月ぶりくらいだった。夏休みの終わり、特に何をしようというわけでもなく、単に久しぶりに、ということで飲みにいったきりだった。 聞き耳はレザージャケットの首元を押さえ、肩をひそめて寒そうなそぶりをした。 「どこ行く? ってかカップルばっかッスね」 「とりあえず、寒い。どっか入る」 カシウスがそう言って鼻を啜ると、聞き耳は「じゃ、行こう」といって歩き出した。 高校を卒業してから二人は別々の大学に進学した。カシウスは恋人のブルータスと同じ、いわゆる名門と呼ばれる私立大に行き、聞き耳はトップクラスの大学とは行かないまでも、そこそこ名の知れ渡っているマンモス大学に進学した。 大学1,2年時はお互いにバイトやサークルで忙しく、大学生活をそれなりに謳歌していたこともあり、疎遠になっていたが、大学3年の就活中に、ある会社の説明会で偶然ばったり出くわした。それからまた連絡を取るようになり、ちょくちょく会ってたわいも無い話をしている。大学のこと、恋愛のこと、趣味のこと。就活中は夢や人生についても語り合ったものだ。 聞き耳は、カシウスにとってほぼ唯一とも言える気の置けない友達だった。恋人のブルータスとはまた違う、心を許せる相手だった。 しばらく通り沿いを歩いたところで見つけたカフェはオレンジの光が暖かく灯り、店内はそこそこ賑わっていた。 ちょうど女性二人が席を立ったテーブルを確保し、聞き耳が二人分の注文をとりに行く。 待っている間にカシウスは携帯をチェックした。メールも電話も無い。そういえばブルータスに返信していなかった。まぁ、あとでいい。 携帯を閉じてカシウスは短く息を吐いた。聞き耳が二人分のコーヒーを載せた盆を持ってくる。 「あ〜寒かった。今日寒すぎッスね」 「うん」 カシウスは外を見やった。人の流れは続いている。誰も寒そうにマフラーをしっかり巻きつけ、カップルは体を寄せ合い、腕を組んでいる。皆幸せそうだった。 「最近、寒い」 「そうッスね」 聞き耳はコーヒーを啜った。少し頬が赤い。 「あと三ヶ月で社会人なんて、信じられないッスねー」 「ね。聞き耳は営業だっけ?」 「そうそう。営業って言ってもいまいち何やるのかぴんと来ないッスけど」 「入ってみないとわかんないよね」 「そうッスよねー。志望動機とかホント苦労したわ〜」 聞き耳は大手電機メーカーの営業、カシウスも同じ業界のメーカーで、人事だった。本当は営業志望だったが、面接時に人事の方が向いていると言われ、募集枠外の人事に配属になったのだった。まあその方が妥当だろう、と自分でも思っていた。 一方、恋人のブルータスは総合商社の法務だ。恋人が商社マンということで、周りから羨ましがられることは多い。何といってもお金の心配がない。だがそんなことはカシウスにとってはどうでもよかった。商社マンだろうが、銀行マンだろうが、バンドマンだろうが、ブルータスはブルータスだ。だが、なんとなく、商社に内定が決まってからブルータスの雰囲気が変わったような気がしていた。自信に充ち溢れた物腰は前からだったし、そこが好きなところでもあったが、今は時折、その自信の隙間に微かな傲慢が見え隠れするような気がするのだ。最も、それはブルータス自身が変わってしまったのではなく、周囲がやたらと持て囃すせいでそう見えるだけかもしれない。以前よりも飲み会に誘われる機会が増えたブルータスに、おいてけぼりをくらったカシウスの嫉妬から来る先入観のせいかもしれない。 そこで返信していないメールの内容を思い出して少々うんざりした気分になった。卒業旅行の話題だった。二人でヨーロッパに行こうというのだ。 (……サークルでも海外旅行行くのに。そんなお金ないし、二人でなら近場でも十分楽しいのに) 本来なら、うれしいはずの誘いなのに。なぜか素直に喜べない。お金を余分に出す、と言われても、嬉しいどころか苛立ちが増した。 「……考え事?」 「え?」 「ぼーっとし過ぎ!」 「あ……ごめん」 ようやく目の前に聞き耳がいることを思い出したらしいカシウスに、聞き耳はそんなこと慣れっこだと言いたげに二、三度頷いた。 店内の賑わいを映す窓に目を向け、コーヒーを啜り、「あー暖かい」などと幸せそうに漏らす聞き耳は、カシウスの上の空など対して気にしていないらしい。 「あ、そうそう。こないださ、内定者の集まりがあったんスよ。そしたらさ、誰がいたと思う?」 「……誰?」 「なんと、イサベルがいたんスよ!」 「ほんと?」 「うん。全然知らなかった。連絡取ってなかったしさ。俺と同じ営業で。女子なんて採用人数すごく少ないのに、ま、あいつ男みたいだから採用されたんだろうな。でも結構可愛くなっててさ、口の悪さは相変わらずだったけど」 「あっちもそう思ってんじゃん?」 「どーせ変わってないッスよ」 拗ねたような表情を作った聞き耳をみて、カシウスはニヤッと笑った。 「今では俺のほうが背高いし」 「いやそれは大学生にもなって成長期に入るあんたがおかしいんスよ」 聞き耳は一瞬間を空けて、ふと思い出したように付け加えた。 「ブルータスとだとどっちが高いんスか?」 カシウスの表情が少しだけ曇ったのを聞き耳は見逃さなかった。 物憂げに視線を斜めに落とし、カシウスはほとんど口を開かずに喋った。 「若干、俺かな。2センチくらいだけど」 「ふーん。ブルータス、ドンマイッスね」 「さぁ……」 カシウスの視線は何も映さない黒いコーヒーの液体に注がれた。聞き耳が次に口を開くまでじっと見つめていた。もちろん、コーヒーの中から何か面白いものが浮かんでくるのではないかと期待していたわけではない。 「どーなんスか、最近」 「何が」 「だから、ブルータスとは。うまくいってんの?」 「…………」 「もしかして……別れた?」 「いや」 「じゃあ何? その気の乗らない感じ」 「……別に」 「別にってことは……」 「いーよ、ブルータスの話は! 違う話しよう。聞き耳こそ、どうなんだ」 「待て待て。何かあったんスか?」 「別に何も無い。いいって、その話は……」 「俺が、聞きたいんスよ」 思いがけず真摯な瞳がカシウスを見つめていたことに驚いた。聞き耳は、カシウスが何も聞くなといえば何も聞かないでいてくれる奴だった。それがこんなに食いつかれるとは意外だったし、その真っ直ぐな視線は何か不安すら感じさせられた。 「何か溜まってるみたいッスね」 カシウスは黙り込んだ。確かにこのところうまくいっていない。いや、二人の関係自体はうまくいっているのだ。喧嘩もないし、一週間に二回は会っている。飲み歩いているとはいえ、飲み会の後には必ず電話をくれるし、メールが途切れることもない。ブルータスの気持ちに疑いはない。 問題は、カシウスとブルータスの気持ちの温度差だった。 残りの学生生活を満喫しようと常に楽しみを求めているブルータスを、客観的にみている自分がいる。彼の楽しみの方向が自分に向けられていても、なんとなく他人事のように感じてしまう自分がいる。 「なんか、最近微妙……かも」 「微妙って?」 カシウスは曖昧に首をかしげる。 「わかんない。ブルータスは、俺じゃなくてもいいんじゃないかって気がする。遊びたがるのも、一緒にいたがるのも、単に恋人らしいことをしたいだけで、それがたまたま俺だったってだけな気がするんだ」 聞き耳は目を瞬いた。数秒、間を開けて、うーんと唸りながらカシウスに向きなおる。 「ブルータスの気持ちを疑ってるんスか?」 カシウスは首を振った。 「ブルータスは卒業旅行でヨーロッパに行きたがってるんだ。お金ないって言ったら、半分出してくれるって」 「へぇ。金持ち〜」 「つまり、ブルータスは派手に遊びたいだけなんだよな。で、そのぐらい派手にお金を使うに値する『恋人』って地位にいるのがたまたま俺だったってだけなんだよ。別に証拠も何もないけど、なんとなくわかるんだ。長いこと一緒にいるし」 「そうなんスかあ?」 軽い言葉調子の割に、聞き耳は本気で考え込んでいるのか、眉間にしわを寄せながら斜め上の空間を見つめて首をかしげた。 「でも、何が問題かって、俺、どうでもいいんだよね」 「どうでもいいって?」 「ブルータスが俺をどう見ていようが、どうでもいいって気になっちゃって。投げやりになってるわけじゃないんだ。本当に、どっちでもいいんだ」 ふう、と細長いため息がカシウスの薄い唇から洩れた。 聞き耳はさも驚いたらしかった。まさにぽかんと口を開けて、見開いた目が率直な驚きを表現していた。 「……うっそ。まさかカシウスの口からそんな言葉を聞くなんて」 「自分でもびっくりだけど」 「何でそんなんなっちゃたんスか? 昔はブルータスがポルキアと話してるだけで泣きそうになってたのに……」 「うるさいっ。いつの話だよ」 もはや今のカシウスには恥ずかしい昔の思い出なのか、店内に響くくらい声を荒げたもので、聞き耳は思わずシーッとジェスチャーをとった。 「……わかんないよ。ブルータスのことが好きか嫌いかって言われればもちろん好きだし、誰が一番好きかって聞かれたらブルータスって答えるよ。でも、前ほどの気持ちがないのも確かなんだ。『どこいきたい?』って聞かれて『どこでもいいよ』って答えるのと似ててさ。なるようになればって感じなんだよ」 カシウスはテーブルの上で組んだ指先に視線を落とした。薄情なことを言っているのは自分でもわかっている。だが誰かにこの気持ちを理解してほしかったのも事実だった。高校時代とすっかり考え方の変わってしまった自分を、聞き耳は理解してくれえるだろうか? 自信がなくて、顔を上げられずにいた。 「ま、わからないでもないッスけどね。それだけ長く付き合ってたら、そんな時期もあって当然ッスよ。今更の倦怠期?」 聞き耳はハハッと笑って腕を頭の後ろで組んだ。 「……俺のこと、冷たいと思う?」 「冷たいも何も、そう思ってんなら仕方ないッスよ」 時期的なものもあるだろうしね、と付け加えて聞き耳はくいっと口の端を持ち上げて笑った。カシウスもつられてぎこちなく笑った。 倦怠期……そうなのだろうか? 一般的な言葉に当てはめれば、確かにそれが近いのだろう。嫌いなわけではない。ただ前よりも相手への関心が薄くなっただけで。それというのも以前持抱えていた気持ちがきっと大きすぎたのだ。 でも……思うのは、今この時間が楽しい。聞き耳と話すこの時間は、店内を照らす暖色の光のように、形もおぼろげな不安を包み込み、心に充足感を与えてくれる。ここ最近覚えのない高揚感があった。 「でもダメッスよ。倦怠期は乗り越えるためにあるんだから」 気を取りなしたように聞き耳が言った。 「なぜ?」 「なぜって、だってお互い好きなんでしょ?」 「たぶん」 「後悔するッスよ」 「……別れたら?」 自分で『別れ』という言葉を口にして、初めてその可能性もあることが現実味を帯びた。 別れる? 別れてどうする? 一人になる。ブルータスに会えなくなる。だがその代わりに自由な時間もふえるだろう。それに、聞き耳だっている……。 「ばか、別れたりしないくせに」 「わかんないよ」 「いーや、別れないね。ってゆうか、別れちゃダメッスよ」 なんで、と聞くのはやめた。高校時代、カシウスがどんなにブルータスを好きだったか、聞き耳は見てきているからだろう。今の状態が一時的なものだと信じているのだ。果たしてその通りなのかどうか、カシウス自身にもわからない。 「外、行く?」 「あぁ、そろそろ行こうか」 「折角だし、イルミネーション、見て行かないッスか?」 ネックウォーマーを頭からかぶりながら聞き耳が言った。カシウスは頷いた。 通りはいまだに混みあっていた。いまやその波に二人も歩調を合わせ、同じ方向を目指している。けやきの木に白い光が雪のように積もって輝いており、それが連なる様はとても幻想的で、まるで天界への道しるべのようだった。 二人は無言で歩いた。聞き耳はぼんやりと前を見ていた。 「……聞き耳」 カシウスの呼びかけに気付かなかったらしく、答えない聞き耳に、カシウスはもう一度呼びかけた。 「あ、ごめん。ボーっとしてたッス」 「疲れてる?」 「んー……ちょっと忙しくて」 「そうなんだ。最近、何かしてるの?」 「っていうか……あ! あそこ、人集まってるッスよ。見に行こう」 前方の階段を上がった先の、建物と建物を結ぶ橋のところに大勢の人が携帯やカメラを片手に集まっていた。 早足で前を歩いていた聞き耳が振り返り、さっと手を出した。カシウスはその手をとった。 力強くカシウスを引き寄せたその手は冷え切っていた。 階段を上り、密集している人混みを割っていくと、眼下には星の海のような深く広がるイルミネーション、それからその海に灯台のように聳え立つタワーが見えた。 「おお〜、綺麗」 「見て。あれ、ハートになってる」 クリスマス仕様になったタワーにはハートマークの電飾が施されていた。聞き耳は感嘆の声を上げて前に身を乗り出した。その拍子につないだ手に引っ張られてカシウスが前につんのめりそうになったのも気がつかないようだった。文句のひとつも言ってやろうかと思ったが、心底楽しそうな聞き耳を見て、カシウスは出かかった咎めの言葉をひっこめた。 「写メ撮らなくていいんスか?」 「ん……」 カシウスは小さく首を振った。 「俺、撮る」 聞き耳の手が離れる。ひんやりとした空気が掌をさらう。聞き耳は携帯の設定をいじりながら、なんとか綺麗に取ろうと奮闘していたが、その甲斐も虚しくようやく撮れた写真はひどくぶれていた。 「あー失敗ッス。やっぱ古い携帯はダメッスね」 「ぶれぶれじゃん」 聞き耳は「ま、いーや」と無頓着に笑いながら携帯をジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。カシウスはその冷たい手を握った。 「手が、冷たい」 「……俺、冷え性ッスから」 「可哀想」 聞き耳の左手を両手で包んで暖める素振りをした。そうしないとこの手の意味が定まらなかった。 誰かが背中にぶつかり、カシウスは前によろけた。二人の距離が縮まった。よろけたカシウスの肩を支えた聞き耳は、今までに見たことのないような至極真剣な顔つきをしていた。今にも泣きそうな、もしくは怒り出しそうな、だが何か決意を秘めたような、真剣だが中途半端な表情だった。だがそれも一瞬で、聞き耳は辺りを見渡すと「混んでんな〜」と溜息交じりにつぶやいた。カシウスは聞き耳の手を片手で握りなおし、何も気にしていない風にもう一度夜景を見渡した。ちらりと横を見やると、聞き耳も同じように遠くを見ていた。 「……あーあ。嫌だなぁ」 避け様のないテストを目前にした学生のような口ぶりで、聞き耳がぽつりと漏らした。 「何が」 「社会人」 長いため息が白く零れ、空中に消えた。 「俺も嫌だなぁ。週5で早起きなんて、考えられないし」 「転勤もあるしね〜」 「ああ、それも、あるね」 カシウスの返事は適当だった。職種的に、彼自身は転勤が無い。 二人はゆっくりと歩き始めた。自然と駅の方向に足が向いていた。繋いだ手は離れることは無かった。 人だかりから離れると急に辺りは静かに、密やかになった。左右の茂みを飾る電飾は何かの秘密を守っているかのように控えめで静かな光り方をしていた。青い薄明かりが、肌に冷たい冬の外気が、右掌に伝わる聞き耳の体温が、カシウスの心を奥のほうから満たしていった。 だがふと頭によぎる暗い影は無視できなかった。カシウスは聞き耳の左手を握る手に力をこめ、眉根を寄せた。 ――俺は悪い奴? ――これって、浮気になるのかな。 ――まさか、相手は聞き耳だぞ。 普段おしゃべりな聞き耳が先ほどからずっと黙っているのは、きっと彼の方でも同じ影を感じているからだろう。 なんだ、黙っていればまともに見えるのに、なんて失礼なことを考えながら聞き耳を見つめていたら、前ぶれなく聞き耳が口を開いた。 「俺さ、引っ越すことになったんスよ」 「え?」 「だから、遊びに来てな」 「え? うん、行くよ。行くけど、どこ? ていうか、なんで?」 突然の告白は、カシウスの理解に及ばなかった。それが二人にとってどれほど重大な告白か、わからなかった。聞き耳が答えた引越し先は、電車を乗り継いで有に3時間ほどかかる北の地だった。 「……は?」 「は?じゃないッスよ。まぁ俺もしょっぱなから地方飛ばされるとは思わなかったッスけど」 聞き耳は人事に地方配属を告げられたときの様子を大袈裟に再現して見せ、わざとらしく肩を落としてうなだれた。カシウスは笑うに笑えなかった。 「うそ、なんで。マジで言ってんの?」 「マジ、マジ。だから最近ばったばたでさ、明後日部屋さがしにいかなきゃいけないんスよ。住むのは来月からだけど」 「そんな……あり得ない」 「そりゃ俺の台詞ッスよー」 目に見えて暗くなるカシウスを励ますかのように、聞き耳は顔を歪めて笑ってみせたが、カシウスは顔を俯かせたままだった。 さっきまでの満たされた心持ちが風にさらわれてしまったかのようだった。まだ形のはっきりしない不安と小さな混乱、そして乾いた虚無感が代わりに生まれた。 ――電車で3時間? 3時間だって。いや、行けない距離じゃない。日帰りで行くことだって可能だ。でも……。 きっと自分は会いに行かないだろう、ということをカシウスは感じていた。 「……ま、そういうことだからさ、カシウスも俺がいなくなって寂しいだろうけど〜」 聞き耳はここで否定の言葉を期待して言葉を切ったが、カシウスは何の反応を示さなかった。足元に視線を落としたまま、聞き耳の左手をぎゅっと握った。 「……だから、あんたもブルータスとうまくやるんスよ」 そう言って聞き耳は細い指が絡まった手を離し、カシウスの頭を優しく叩いた。先ほどまでカシウスに親しげだった控えめなイルミネーションも、心地よい夜の冷気も、聞き耳ですら、今や全くよそよそしいものに感じた。それらは全て自分の味方ではなくなっていた。 カシウスは思考が状況に追いついていないようで、言葉を発することができず、代わりに聞き耳を睨み付けていた。少し遅れて、小さな声で「うん」といった。 聞き耳は満足げに口の端をあげて笑い、カシウスを前へ歩くよう促した。気がつけばもう地下鉄の入り口についていた。 来た時と同じように、今度は帰る人で込み合う改札へ向う歩みの中、カシウスは聞き耳に伝えたいことがあるような気がして、だがそれが何かわからず考え込んでいたらあっという間に改札までたどり着いてしまった。 カシウスの内心の葛藤など知りもせず、聞き耳はいかついG-SHOCKで時間を確認し、カシウスに向きなおった。 「じゃ、またな。カシウス」 「…………」 「またこっち来るよ」 「……うん」 結局言いたいことが見つからず、黙っていることで聞き耳を困らせているだろうと思い立って、「行こう」と聞き耳を促し改札を抜けた。もう一度分かれの挨拶をして、カシウスはホームへ続く階段に足を向けた。階段を降りる直前で振り返り、反対ホームに続く階段を見やったが、聞き耳はもういなかった。 電車の窓に映る自分の顔は少し疲れているように見えた。だが特別変わった風は無く、いつも通りの自分がそこにいることが不思議だった。こんなに内面では激しい変化があったのに、実際何も変わったようにはみえないのだ。 そうだ。変化が、あった。 ――俺は……。 去り際の聞き耳を思い浮かべた。あいつは笑顔だった。昔よりも、大人びた笑顔で、じゃあな、と言った。 ――どうしてあんな大人びた風な笑顔をするんだ。どうしてあんな諦めた風に笑うんだ。勝手にいなくなって、悲しいのは自分だけだと思っているのか。自分だけが諦めれば万事うまくいくとでも思っているのか。俺の気持ちも知らずに。 心の温かい人間は手が冷たい、なんて文句を思い出す。聞き耳の手の冷たさがまだ掌に残っているような気がした。そしてその感覚が消えたら、きっと今日あったこと、今日彼に対して感じたこと、全てなかったことにしなければならない。 今日のことは幻だったのだ。二人を見守る静かなイルミネーションも、クリスマス仕様の特別なタワーも、彼の手を包み込んだ時の自分の手の熱さも。きっとクリスマスの夜が見せた幻だったのだ。 カシウスは眉間に力をこめた。一筋涙が零れた。
聞き耳好きすぎる。